いろいろ調べてみた中では、この説がいちばん受け入れられていると思います。
つまり。さいしょの[子音+母音]が同じならば、「頭韻」だといえる
とする考えかたをするものです。言語学のほうでは、この[子音+母音]のことを「モーラ(拍)」と呼んだりします。ですので、いいかえればさいしょの「モーラ(拍)」が同じならば、「頭韻」だといえる
ということになります。
「頭韻」については、この説明をする本がいちばん多いといえます。
でも。
どうして多くの本で、この「さいしょのモーラ(拍)が同じならば、頭韻といえる」と解説する本がおおいのか。その理由は、「モーラ(拍)が同じ」ならば、「ひらがな・カタカナで書いたばあいに同じ文字が来る」
という原則を、「日本語」が持っているからです。このことを根拠とする書物は、かなりたくさん見つかりました。
この説を支持すると、「頭韻」がといえるもの。その例としては、- なせばなる
- なさねばならぬ
- なにごとも
- ならぬはひとの
- なさぬなりけり
(上杉鷹山)
といたものがあげられます。「ひらがな」で書けば「先頭に同じ文字が、くり返し出てくる」ということが分かります。
なお。
このように、「同じ文字が来るから」という理由を、あまり大きく見ない立場もあります。
「モーラ(拍)」が一致するというところに、「音の一致」を感じとる。そうやって感じとった「音の一致」というものが、「頭韻」を生みだす。このような考えかたもあります。
たしかに日本語の「頭韻」では、「文字」が一致する。でも「文字」が一致するというのは、あくまで、「モーラ(拍)」が同じときには「文字」も同じになるという、日本語の「文字」のしくみがあったからにすぎない。
つまり、
○「モーラ(拍)」が一致→「頭韻」として感じとる・「文字」が同じになる
なのであって、×「文字」が一致 →「頭韻」として感じとる・「モーラ(拍)」が同じになる
ではない。
そういうことです。
この考えかたにそえば。
日本語で、「頭韻」を考えるときに、そのいちばん根っこにくるのは「モーラ(拍)」だということになります。このように、日本語の音に対する感覚から「頭韻」の本質を考えていくことも大いに考えることができます。
こちらの考えかたについては、『ネーミングの言語学-ハリー・ポッターからドラゴンボールまで-〈開拓社 言語・文化選書8〉』(窪薗晴夫/開拓社)が、とても参考になります。